ちょっとした気づき

承認欲求って恐らく2種類ある。
「不特定多数から認められたい」欲求と「とある特定の人物に認められたい」欲求だ。
何を当たり前のことを、と思われるかもしれないが私は今さっき気づいた。少なくとも私個人的には、その2種類で満たされる部分って少し違う。どちらもないとどこか満足できないんじゃないかと思う。

前者は、例えば支部に投げた作品の閲覧数やブクマが多かったり、本が予想以上に売れたり、Twitterとかで見知らぬどなたかが作品をシェアしてくれていたり、感想を添えてくれたり、そういった時に満ちる。誰とも知らない方々からの多数の承認は、なんとなく安心感と肯定感を与えてくれることだろう。

後者はもっとわかりやすくて、言ってしまえば好きな人に認められたい欲。好きな人というのは何も恋だの愛だのではなくて、例えば好きな文を書く人だとか、好きな絵を描く人だとか、仲がいい人だとか、そんな感じ。憧れの人に作品が認められると、言い様のない多幸感がある。

このふたつは多分種類が別で、どちらかが満ちてもどちらかが満ちてないなんてことはざらにあるんだと思う。
で、タイトルにあるような「ちょっとした気づき」というのは、私自身、ちょっと気持ち悪いくらい後者が強いということ。

中二から中三くらいにかけて腐女子と付き合っていた。
彼女はREB〇RNとヘ〇リアが専攻で、当時百合だの薔薇だのの概念を会得していなかった私は正直そんなに良さがわかっていなかった。今ならわかる、などと言うつもりは無いけれど、中学生の頃の私は本当に無知で無垢だったのだ。
さて、別にそれ自体は問題でないのだ。対抗馬(?)さえ居なければ。
あの頃は毎日毎休み時間そういうの(オタクコンテンツ)を解する友人が集まってそういう(オタクコンテンツ)トークに花を咲かせていた。私はずぶずぶのオタクではなかったけれど、作品自体は知っていたので腐とか分からないなりに話を合わせていた。割と頑張っていたと思う。しかし彼女とも私ともそれなりに親交のあったKくんが腐を解する男であったので、私はそれなりに疎外感を得ることになる。嫉妬だったかもしれない。
本来私が頂戴するはずの「うわそれ最高」「天才かよ」などという”好きな人(彼女)から承認”を、Kくんは奪い去っていってしまった。
私はどうにか食らいついていくために、”承認”を得るために「腐方面に理解がありますよ」という知ったかぶりを重ねていく訳だが、なんというか上っ面も取り繕えていなかったと思うし、可愛いな、当時の私。

その知ったかぶりのおかげで、同性愛みたいなものを考える土台は確かに構築されたし、そのこと自体はよかったのかも知れない。あれがなければ女女にハマっていなかったかもしれないし、Kくんが読んでた灼眼のシャナを貸してもらったのは人生の転機だった。まあ小さな嫉妬が振り積もってKくんのこと嫌いになってしまったのだけれど。

話が逸れた。結局のところこの”自分にとって特別な人からの承認”というのは麻薬じみて気持ちがいいのだ。
小説を書き始めて、それなりに評価をいただけるようになった今、とみに思う。ああ、自分が信頼するオタクに信頼されてぇ。自分が好きな創作してる人に、どちゃくそ褒められてぇ。
心底愛してる文や絵を描く方は数名いるが、その方々からの承認を独り占めしたい。別の人の作品をシェアして褒めちぎってる時めらりと燃える炎が自分の奥底に在る。
そんな浅はかな自分がいることに気づいた朝7時半だった。

不特定多数あるいは特定の個人に承認されるって気持ちいいし、悪ではないのだけれど、それだけを求めても(少なくとも私は)良い創作はできないんじゃないかなとも思う。だって、そもそも私は信頼オタクに信頼されるために書いてる訳では無いので。そういう動機で創作する方もいるかもしれないし、それはそれで良いと思う。しかし私は私のために私が見たいものを作ると標榜しているので、常に満ち足りず、渇望が止まない自分でありたいなと思う。どんだけ褒められても満ち足りない自分でいたいと思う。
自分の創作を認めつつ、満足はしたくないなと思うのです。
最近そのへんがぶれてたかな。他人の目を気にしすぎていたのかもしれない。

もっと気楽にやろうな、技術は書いてりゃついてくるさ、という自分への慰めを兼ねた纏まらぬ雑記でした。

ツイ廃の自覚がそれなりにある自分が、何となく、その場の気分で、ブログなるものを初めてみる。
中学生の頃に身内ネタ満載、リアルの友達しか見ていないようなブログを開設していた。初めて出来た彼女の話とか当時ハマっていた音楽の違法アップロード動画とかを載せて喜んでいた。ブログをやるのはあれ以来である。ちなみに、何となくブログタイトルは思い出せるが、多分ログインできない。消せない黒歴史というものは、恐ろしい。一刻も早くサービスごと消えて欲しいものである。
今自分がつらつらと書いているこの文や、嬉嬉として苦しみながら書いている二次創作小説の数々は、同様に黒歴史となってしまうだろうか。或いは、可視化された歴史として自分の礎になってくれるであろうか。少なくとも、態々本に刷った小説は恐らくひとりでには消えない。
そこにこそ、私は本にする意義を見出しているのかもしれない。大仰な言い草だが、結局は自慰行為に過ぎないと思う。

ここまでを読み返した。なんとまとまりのない内容か。つまりは、このブログも自慰行為に過ぎない。
創作という枠はなんというか肩肘張りすぎてしまう瞬間がある。何か(自分の場合殺意と呼称することが多い)を込めねばならない、という強迫観念すら得てしまう瞬間がある。そんな時、こういう所につらつらと文を吐き出してしまえるのは、結構心地いい。
この情報化社会は、自慰をするには結構いい時代なのかもしれない。もしかしたら、自慰に評価が得られるかもしれないのだから。